健全な比較というものについて考える。

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習い事でいわゆる「相対評価」を経験して、
不本意な結果に不貞腐れ気味の子どもに、


「人生は自分との勝負で
 誰と比べて自分はどうとか
 身近な人・遠くにいる人、とにかく誰かと比べていい気分になったり落ち込んだりするんじゃなくて
 自分がどうしたいか、どうあったらいいか、
 自分の気持ちと向き合って、自分の中で競争していくものである」

みたいな話をしたばっかりなのに。

自分は、とある有名人のインスタを見て、
自分との違いに(年齢や子どもの構成、そして好きなものなどが似ているけれど、生活の様子がまったく違う)なんだかなーとどんよりしている。

寝不足
鏡に映る正気のない顔。

ぜんぶ、つかれているせいだ。

と、思いたいけれども。

どんよりした気持ちは、
そう思ったところで、晴れるわけでもない。

希望いっぱいの子どもに語ることと
希望の整理をしていく自分に語ることと
違っていいのか
違うべきなんだろうか

とはいえ

自分は他人があるから存在する
他人がいるから
自分の現在地を見つけたり、行き先を確認したり、
という作業もまた
ある程度大事だったりするわけで、
その時のものさしを、例えば誰にするのかとか、
健全な比較
健全な憧れや健全な優越感というものが
やはりあるんだろうかとか。

子どもに語るとき
自分に語るとき

二枚舌。

理想と現実。

今朝2杯目のコーヒーを飲もうか飲むまいか
あの人だったら飲むんだろうか
もっと優雅に飲むんだろうなとか
しょうもないことを考えながら、お湯を沸かす。


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