自立心=いきいき生きる、の原点。

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子どもの「イヤイヤ期」。

年齢にして、大体2歳〜3歳に訪れるその時期、
子どもたちは1日5万回くらい「イヤイヤ」といい、
5秒に1回くらい「じぶんで!」という。

子どもが自分を探し始め、
自分の好きなことや心地のよいことをわかり始め、
自分という存在を認識し始め、
(そうして他者も認識し始め、)
自分でやること、他者に頼ること、
そういったことをあれこれ理解して生きる力を身につけていく、
大切な時期。

大切な時期、というのは、大変な時期でも、あります。


たぶん、何かをつかもうと悪戦苦闘している本人にとっても大変でしょう。

そうして、そんな子どもを見守りたいと思う気持ちがありつつも、
何かと忙しない親にとっても。。。割と、過酷!

だって何をしても「イヤ!」と言われ、
ちょっと手を出すと「じぶんで!」と言われ、
(彼らにとっての)番狂わせが起こると、手のつけようがないくらいに荒れる・・・!
(「じぶんでやりたかったぁぁぁぁぁぁぁ(号泣)」)

特に、親が時間に追われているときなんかには、
(育児の指南書に書かれているように)
「まぁ、自立心が旺盛ね、まさにいま、自己を確立しようとしているのねっ」なんて微笑み、
「どうしたの、何がいやだった?」なんてヒアリング(傾聴)したり、
「じゃあやってみようね」なんて前向きに待ってあげる余裕もなく、
こっちだって、「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ(号泣)」ってなる。

おおよそ1年くらい、このやりとりが続くもので…

日本語では「魔の2歳児」と呼ぶ時期に重なっていますが、
英語でも「the Terrible Twos」という表現があるらしい。

万国共通。

世界平和。

つなげよう育児の輪。

さて、我が家の第二子も、ただいまこの「イヤイヤ期」の真っ只中。

「怪獣ジブンガァ」となり、大荒れの日々。

わたしも、白目をむきながら、かわいい息子の成長段階に付き合っています。

それで思ったことがあって。

この「イヤイヤ」も「じぶんで!(自分でやる!)」も、
人間の子どもが「自立していこう」とするものすごく強い欲求で、
ものすごいエネルギーを発散して、
勝ち得ようとしている能力であり立場であり。

果たして、大人になったわたしたちは、
この、力いっぱい、精一杯、手に入れた自立した立場を、
享受しきっているのだろうか?
ということ。

振り返れば、

高校生とか、大学生とか、
成人していく段階までは、
この「自立」ということについて、
多くの人がそれなりの喜びを得ているように思う。

好きなテレビや動画を観られるとか
コンビニで好きなおやつ買えるとか
バイトするとか
恋人つくるとかデートするとか
夜更かしするとか

働いてお金を手にするとか
自分で暮らすとか誰かと暮らすとか


選択すること自分でやること

そういうことに喜びがあったんだと思う

そういうシンプルな喜びを得られる構造を、
いつからか失ってるんじゃないかい?っていう。

誰かがやってくれればいい
むしろ誰かにやってほしい

コスパわるい

面倒くさい

どうでもいい

生活にしても仕事にしても

そうやって「自分で(何でも)やること」の喜びをすっかり忘れてしまって他人任せで。


それでも暮らせる便利なシステムの中で、
プログラムアップデートのない自動運転をしていることが
けっこうあるんでないかい?

一方で、
この「怪獣ジブンガァ精神」を持ち続けている人っていうのは、
おとなになっても一定数いるなと思い当たる。

わかりやすい例でいえば、きっと、起業家とか研究者とか、
「生き生き」と何かに邁進している人たち。

彼らについて、
なんとなく定型的に「子ども心を持ち続けている」なんて言われることが多い。


そしてわたしはぼんやりと、
「子ども心を持ち続ける」=「”好きなこと”に熱中できる」であると
特に深く考えず片付けてしまっていた気がするのだけれど、
この「じぶんで!」の精神というか、「じぶんでやりたい」という
「自立心」「自分でできることの喜び」みたいなものを失わずに保ち続けていることが、
「子どもの心を持った」の要素ないしは態度として、
大きいんじゃないかと思うようになりました。

思えば、例えば働く環境において、
これまで自分が経験したような「エネルギーに満ちた職場」というのは、
この「自分でやりたい(やります!)」という人が多かったなぁと、思う。


つまり、職業やポジションによらず、その人に「自立」した気持ちがあるかどうか。
そういう人たちが集まるチームなのかどうか。

あ、それをプライド、と呼ぶのかもしれない?

いわゆる「市民活動」みたいなのも、きっと一緒なんだろう。

もし、いまある社会(コミュニティ)がなんとなく停滞しているとすれば、
この「自立」した気持ち、自立したひとりのメンバーであるという気持ちやプライドが、
「市民」の中に広く薄れているからなのかもしれない。

みんなが子どもの頃のような自立することへの当然の欲求をもって、
その獲得と発動に向けてエネルギーを発散させている状態というのが、
きっと「生き生き」した状態なのだ。

生き生き、生きてる。

子どもはそうやって、生きてるから、
大人のわたしたちは、見ていて愛おしいし、応援したいと思えるし、
逆に励まされたり癒されたりも、する。

ただ可愛いからだけじゃない。

そういう視点でいると、
すっかり大人になってしまったわたしの「代わり映えのない日々」というのも、
ささやかな自立の結果であり、
自分が自立心や自立への自覚をもっていさえすれば、
それだけで、生き生きしている、といえるのかもしれない。

生き生きと、Netflixで韓国ドラマ観るでも、いいんじゃない。
怠惰でもなく、いや、怠惰すら、選択。
わたしは、怠惰をして、生きているんだ!(怠惰だって、できるんだ!)
(開き直り、でなく…)

日々の生活の中に、ささやかでも、生き生きとした瞬間を見出すこと。
情熱、エネルギーを注いだもの、つまり、「自分で決めたこと」を見出すこと。

そうやって大人も子どもも、
(ふつう、大人が子どもにするように)
手を差し伸べたり、差し伸べられたり、
愛したり、愛されたり。

体温を、交換して。

その循環が、きっとわたしたちの中に、その場に、生き生きをうむ。

今日も。

外遊びの帰りに、
「じぶんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇ(号泣)」と、
靴と一緒に(わたしに)脱がされてしまった靴下について
「自分で脱ぎたかった」と大炎上する息子。

彼のプライド。

リスペクトしよう。

彼が、成長してもなお、その喜びを失わないように。

そのために、
わたしも今ここにある自立を楽しむ大人でいたい。


日々、生き生きの原点を見つめる。
ここに、生き生きの循環を見つけた。

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