今年の恵方巻の売れ残り・廃棄量が、
「256万人が1本ずつ食べられた」
ほどであったという記事を読んで、朝から気分がすぐれない。
身体のどこか(はらわた、とでもいうのでしょうか)がもぞもぞしてやるせない気持ちになっている。
節分の日、わたしも近所の割と愛用しているスーパーで、
おさかな売り場の(大袈裟でなく)3分の2が「恵方巻き」で占められていて、
辟易したのだった。
ものすごく、嫌な感じがしたのだった。
もう午後だし、こんな大量の恵方巻き、本当に売り切れるのだろうか?と。
帰宅してからも随分嫌な気分が抜けなくて、
夕ご飯のときも報告が止まらなかった。
うに入りやら、何入りやらで、2,000円を超えるようなものも含め、
黒々とした恵方巻きがぎっしりぎっしりと一面に並べられた空間は…
だいぶ異様で。
もちろん、予約販売ではない。
イベント感を出したいお店の気持ちもわかるけれど、
節分といったって、日常のある一日で、
年末年始のように市場がお休みとかそういう事情があるわけでもないし、
夕ご飯の選択肢がほぼ恵方巻き、
お魚が買いたいなと思っても買えない状況を作っているのも、
なんだか生活者として置いてけぼりにされているような嫌な感じがしたのだった。
閉店間際に見に行ったわけではないから、
きちんと売り切ったのかもはしれないけれど。
売り切ったのならば、少なくともフードロス的観点からは納得するのですが・・・。
経済損失や環境負荷、諸々に影響するフードロス問題。
すべてつながっていて、すべて解決したい。
けどやっぱり、
お腹を空かせている人に、食べものがいかない状況がありながら、
「無駄」になっていることが、わたしが一番、嫌なこと。
廃棄現場の写真を見ると
本当に嫌な気持ちになる。
ところで、いま、たまたま、図書館で順番が回ってきた『おいしいごはんが食べられますように』を読み進めているところ。
芥川賞受賞作、ということで半年以上前に予約したのですが、あらすじは把握しておらず…
ちょうど
「食べるのが面倒くさい」「すぐなくなってしまうものに手間暇かける意味がわからない」
「食べ物のことについては残したりすると何かと勿体無いとか言ってくるのがうざい」(すべて個人的要約)
といったような登場人物の「食」に関する気持ちが出てくるあたりにいて、
うーん、わたしも子どもたちに、
「お米の一粒ひとぶつに神様がいるんだよ」
とかいう話を、
「もったいない!」とか
「食べられなくて困っている人もいるんだよ」とか
そういう話を、常々しているなぁと思って、
「うざい」
って思われていたら(あるいは、彼らが大人になって、そう思い出されたら)悲しいなぁって
切ない気分で読んでいます。
恵方巻き大量廃棄のニュースを読んでも、
なんとも思わない人もいるし
環境負荷の観点から、経済的な観点から、
わたしが知らないようないろんな観点からあれこれ思い、是正しようとしている人もいる
あるいは意図的に放置しようとしている人もいるのかもしれない。
そのいろんな気持ちと利害とが一致して
いつか解決する(落ち着く)ときがくるのだと思いたい。
その時まで、わたしの個人的な活動としては…
知らない人にまで
「お米の一粒ひとつぶには…」
的な価値観を押し付けようとは思わないけれど。
「うざい」と思われても
家族とはそういう話はしていたい。
わたしが嫌だと思う気持ちは
嫌だと伝えて
でも子どもたちが何を思うかは
聞いてみようかな。
うん、聞いたほうがいいんだろう。
毎日、
今日は何を食べようかと考えて暮らすことができて
買っても作っても外食でもなんでも
用意したものをただ大切にいただくというのが
わたしにとって十分丁寧で、幸せなことです。
小さな循環が積み重なっていくといい。