ストレッチする、ということはどういうことなのか?
ちょっとがんばる。
ちょっとがんばるを続けると、成長する。
ちょっとがんばるっていうのが
どういうことなのか?
今できないことをやることなのか?
今できることを続けることなのか?
わたしは、どちらかというと、
前者のイメージを強く持って生きてきた。
でも、きっと、そればっかりじゃないよな、
という、話。
—–
フォローしているヨガの先生は
ヨガをするときに、
「がんばって」やるのは、いいことではない、と繰り返す。
ヨガをするときの「がんばる」は、
例えば体勢がつらい、とか。
ちょっと骨や関節が、痛い、とか。
筋肉がプルプルする、とか、息を止めて集中する、といったようなことがあるのだけど、
そうすることが、何かに「効く」ことはないのだと。
痛くない、つらくない。
身体にストレスをかけないこと。
自然な呼吸ができる、そんな状態で、ポーズをとったり、動いたりすること。
それを続けることで、
筋肉はよりしなやかに増強されていくのだと。
サステナブルな身体の鍛え方について教えてくれている。
「サステナブルな鍛え方。」
身体だけでなく
心の状態や、思考のこと、
もちろん美容のことも、同じかもしれない。
成長することや向上することは
その期間が短ければ短いほど、達成感をはやくに得られるのでうれしく思い、
うれしいことはいいことだから、
それに伴う苦痛や負荷は、ある種バーターのように、
むしろポジティブな意味を持って受け入れられている。
ストレッチな目標を持って、
痛くても、つらくても、
息を止めてがんばった次の瞬間に、いいことがありそうな気がする。
実際、いいことも、あるよね。
アドレナリンも出るし
誰かと一緒にやっていれば、
危機感をともにする仲間意識…みたいなものも生まれたりするし。
痛くても、つらくても、その先にある何かを目指して努力する、という状況は、
ドラマチックで、美しかったりもする。
その名のとおり、「ストレッチ目標」なんていうのは、
すなわち「ちょっと無理する目標」であって、
わたしが若い頃の職場環境には、常に目の前にチラついているものだった。
会社が売上を上げるため、
そうして個人のサラリーを上げるためには、
昔も今も、ある程度必要な仕組みなのだろう。
でも…
「今」に集中して、
今、できること。今、やれること。
その範囲にいて、それに向き合い、じっくりと続けていくことで、
気づいたら、筋肉になっている、ということも、
そうして、
そうやって得た筋肉は、ずっとしなやかで、健やかに、
身についたままかもしれない、ということも、
最近ではとても、実感がある。
それは、わたし自身が
短期的な成長や向上を見込めない、というか、
成長ばかりのフェーズではなくなってきた、ということもあるのだけれど、
それだけでなくて、
子どもを見ていても、思うことで。
成長の、その段階に合った成長、というべきか。
幼い子どもが、日々のくらしの中で少しずつできていくことが増えていくように。
そうして得ていく緩やかな達成感が
自信や強さにつながっていくのを、見つめている。
学童期に入ると、
どうしても、詰め込む知識や社会ルール、
そうして、経済活動に巻き込まれていく準備段階として、
ついつい「もっと、もっと」を(親は、大人は)考えてしまうのだけれど…
子どもが若者になっていくとき、
それを傍らで見守っていくときにも、
持っていたい視点だなと思う。
「いま、がんばらなくてどうする?」
というのが、若者についてまわるとして、
その「がんばる」が、「ストレッチ」とか「痛い、つらい」伴うもの、だけではないということ。
目標とかそういうものがあったとして、
「いま、できることをやろう」っていう現実感が、
彼らが、いつ、どんな状況にあっても、その中で「よい方向」に導いていく気がする。
或いは、ずっと続いていく「生(Life)」のサステナビリティ・健全さにつながっていくような気がする。
今のところ…
我が子はそんなことをわたしに教えてくれるほどに十分にマイペースなのだけれど…
これから思春期や、揺らぐ時期が次々とやってくるときに、
そんなしなやかさの種を持ってい続けてくれたらいいな。
喧騒の中でハンバーガーとサラダをつつきながら、
思ったりする、夏の日。
【8分】