「ママ、スタバに、クリームがのってるなんとかってやつ、ある?おいしいんだって。食べてみたいなぁ〜!」
…クリームがのってるなんとかってやつ…
何かをいっているようで何もいっていないけれど、
子どもが好きそうなスタバのメニューといえば、「フラペチーノ」系なんだろうな、
ということで、
そんなリクエストをされてから「そうかそうか」とごまかしながら1年近く経とうとして、
季節はどーんと真冬だけれど、
所用の帰りに2人でスタバにお立ち寄り。
今時の小学生の会話、恐るべし。
いや、小学生の会話、というべきか、
食いしん坊小学生仲間の会話、というべきか。
いずれにしても、
我が子や、その「口コミ」をしてくれたお友だちが、
今この瞬間、ここにこうして生まれて、生きていることは、
経済的な豊かさ、心の安心や安全という意味で
きっとラッキーなのだ。
夕方のスタバの店内をぐるっと見回すと
老若男女がカップを置いてくつろいでいて
きゃっきゃと話をしたり
本を読んだり
勉強をしたり。
しみじみと、
許された時間を消費する、
その豊かさを思う。
ただし実際のところその豊かさは
そうやって
自分がフレームの外からぐるっと見回した時にだけ
静かに感じられるものであって
自分が暮らしの真ん中にいるときには
なかなかに見えないものであったりもする。
これが厄介なところで
豊かさは絶対的になりがちなのだ。
そうして絶対的でありながら、
基準がなかなか定まらない。
自分や自分たちが
どうあれば豊かなのかという基準。
だから
逆に 常に枯渇していたり、飢えていたり、
そうして
相対的なバランスを崩しながらも
よかれと邁進することで
自分を壊し
社会や
環境や
地球までをも壊し。
「下を見る」とか「上を見る」とか
そういう相対的な眼差しは、時に差別的になるわけで、
それがいいと言っているわけではもちろん、ない。
けれど、
うちとそとを行き来する感覚と
納得したり満足したりする感覚と
まずはそこを持たないことには
わたしたちは底無しの焦りと競争とにまみれて
助け合うことや
「取り残さない」ことにまで
意識を向けることはできないんだろう。
下や上や
横や斜めや
世界にはたくさんの人がいて
たくさんの事象が起こっているんだ。
本当は。本当に。
コロナ禍で
ひとりの人間が実感する、実感できる心と身体の範囲が
ますます「タコツボ」化していくことは
個々人にとっては楽チンで、
長引けば長引くほど、
人は深く、さらに深く、
(または、高く…)
自分のことだけを考えるように なっていくのじゃないだろうか。
自分の外を取り残して
境界のない各種の問題が どんどんと解決されない方向に行くのではないかと
不安に思っている。
無邪気にフラペチーノを楽しむ息子をながめながら
彼が彼の中に、これからどうやって、豊かさの基準を構築していくのだろうか、
と、
気になっている母です。
わたしももがき、いまだ考え続けていることだから。
ネガティブなお手本にならいくらでもなれる自信はあるけれど
できればそんな姿は、隠しておきたい。
できれば 無邪気なままで
自分の中に やわらかくて ほかほかな
そんな拠り所をもって
絶対的な自信をもって
相対的に思いをめぐらせ 身体をうごかせる
そんなおとながいいんじゃないかな。
わたしもまだ
間に合うかしら。
【15分】