いち&ママちゃんのどきとき会話日記 #56-弟なりくん・前回2歳ラストと思ったらラスト当日に録れ高あった件。

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子どもの誕生日というと、
ああ、X歳のこの子はもう今日でお別れで、
明日からはY歳のこの子になるんだなぁという感覚がしみじみとあって、
なんだか歳を重ねること、その「日付をまたぐこと」の重みが、すごい。

一瞬一瞬の彼らに、愛おしさがあふれてくる。

自分の誕生日には、そこまで思わないなぁ…

子を慈しむように
自分も慈しむべきなのかもなぁ!?

ところでわたしの音声録音の原点は、自分自身の思い出とともにある。

わたしが小さい頃、我が家にはまだビデオカメラなるものがなかった。

(どこからか借りてきた「8mm」いうやつで撮った自分の映像は見たことがあり、それはそれで昭和感満載。もうどこにあるのかもわからないし、2度と見ることはないのだろうけれど、記憶に残っている。ちなみに、6つ下の弟の時には、いわゆる「ビデオカメラ」が我が家にもあった。わたしと6つ下の弟は、思春期以降にかけても、何から何まで「弟の時には…」というのがあって、きっと世の中が大きく変わった境目がその辺にあるんだろうと思う。そんな弟とは、世代間ギャップ…がありつつも、結構仲良しだけれど!)

まぁ例えビデオカメラが当時にあったとしても
「機械オンチ」
というか、とにかくそういったものに「怖くて触れない」という類であったわたしの母は、
父不在の時に、ビデオカメラを回して子どもの成長を記録する、
ということはしなかっただろうとも思う。

一方、とにかく子育てに生活のすべてを捧げていた母は、
彼女のかわいいかわいい子どもたちのことを
それでもどうにか記録しようと、
昔ながらの「カセットテープ」に、わたしたちの(との)会話を時折録音していたのだった。

少し大きくなってから、そのカセットテープを母や兄弟と一緒に聞くのは、
時折の暇つぶし的な恒例行事になっていて、
それは、音声にだけ記録され、景色は想像に任された、
なかなか趣のある思い出だった。

と、そんなこともある時まですっかり忘れていたのだけれど、
今から10年くらい前に実家に帰省していた時、
ふとそんなカセットテープのことを思い出して探し出し、
カセットデッキ(がまだある、というのも、これまたザ・実家!)に入れてみたのだった。

「劣化して、もうダメになっちゃったんじゃないか」
という母親の心配もありつつ、
音声はしっかりと聞くことができて、
なんだかんだとひとしきり盛り上がった。


そしてそれ以外の方法が思い浮かばなかったので、
とりあえず流れる音声をスマホで録音したのだった。

自分がすっかり大人になってから聞く、自分たちの声というのは、
本当にまったくもって手がかりのない、
他人のようにすら感じる、
不思議なものだ。

写真には、例えば「どこかに面影があるね」というのが残っているけれど
(なお、わたしの顔は小さい頃からほとんど変わってない…)
声というのは…不思議なくらいに、何の形跡もないのだ!
(もしかして、ちゃんと研究すれば、何かがそこに残っているのかもしれないけれど、わたしの素人耳にはわからない。)

最近、そのデータをまた「発見」して(10年前、スマホに録音したはいいが、どこにしまったかなどすっかり忘れていたわけで)聞いてみたのだけれど、
何しろ信じられないくらいに若々しくて、信じられないくらいに甘くて優しい母の声を聞くのは、
ますます不思議な感じがした。

本当に、「子どもに話すみたいに話している」のだ。母が!

そりゃ、そうなんだろうけれど。

母親との会話というのは、
すっかり成長した自分とほとんど対等に行われているものしか記憶していないので、
まだまだ完全に「お子ちゃまな自分」と「“お母さん”な母親」との会話というのは、
新鮮でしかない。

すっかり子離れ・親離れをしている親子関係の中で、
改めて、母親のことを、一人の当時20代やら30代初めやらの若い女性として、
そうして「母親」として頑張っていた人として、
音声を通じて認識するのは、
すごく切なくて、すごく美しくて、
涙が出そうになる。

センチメンタルになるのは、
幼かった自分のこと、についてでなく、
今の自分に近いような(年齢は彼女の方がだいぶ若いわけだけれど)立場にある当時の母親に対して。

10年前に聞いた時には、
わたしはまだ母親というものになっていなかった。
どちらかというと、
幼い自分たちのことに関心があったように思う。


この間に、
自分の中で、感覚の変化、一人の女性としての母親に対しての敏感さが増したんだな、
ということも、
また気づきであり。

子どもと録っているわたしのラジオは、
わたしが「子どもたち、かわいかったなぁ」と懐古し楽しむためのものであるのだけれど、
もしかすると、
自分自身の「当時」を振り返るためのものになるのかもしれない。

きっとその頃には、わたしはもはや「母親」としての役割もあまり持ち合わせず、
いろいろと忘却の彼方にあって。

他人行儀に、
一人の女性の、母親として切り取られた一瞬一瞬の姿として認識するのかもしれない。

その時に、女性の先輩として、
遠い昔の自分を、慈しんであげられたらいいのかなぁ、とも、思う。

【5分】

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